ラレコ山への道 小野木豊昭 古典空間への誘い

【其の七拾弐】三代目讃と四代目への期待

2012年5月

吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりけり

「吉野山の梢の桜を見た日から、気持ちは自分の身体から離れてまったく落ち着かない……」平安末期の大歌人・西行が吉野を旅した折、詠んだ和歌。西行の私家集(しかしゅう/個人の和歌集)『山家集(さんかしゅう)』の中にも、「花の歌あまたよみけるに」の詞書(ことばがき)のもと、実に多くの吉野の桜を詠んだ和歌が収められています。

桜に霧がかかり幻想的な吉野山

吉野山といえば、何と言っても歌舞伎の『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』。1747年(延享4年)12月、大坂・竹本座で人形浄瑠璃として上演された翌年には歌舞伎に移入され大ヒットし、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』と並んで義太夫狂言の三大名作のひとつとされています。

平家滅亡後、兄頼朝と不和となった源義経を物語の軸にすえ、生き残った平家の人々にスポットを当てつつ物語が展開します。壇の浦で入水したはずの“平知盛(とももり)”が実は生きていて義経に復讐を企てる「渡海屋(とかいや)」「大物の浦(だいぶつのうら)」(二段目)、平維盛(これもり)親子を守るため落命する“いがみの権太”を描く「すし屋」(三段目)、“佐藤忠信に化けた源九郎狐(げんくろうぎつね)”が、義経から両親の革で作られた初音(はつね)の鼓(つづみ)を授かる「河連法眼館(かわつらほうげんやかた)」(四段目)の3場面が大きな見所です。

「河連法眼館」は通称「四の切(しのきり)」といわれ、現三代目市川猿之助さんの親を慕う源九郎狐の迫真の演技、そして忠信から狐への早変り、欄干(らんかん)渡り、宙乗りなどの「ケレン」と言われる見せ場満載の演出で、歌舞伎史上に残る舞台であると私は思っています。『義経千本桜』のほとんどはこの「四の切」までの上演なのですが、猿之助さんは「五段目 吉野蔵王堂花矢倉(よしのざおうどうはなやぐら)の場」を復活上演しました。舞台一面の桜を背に繰り広げられる立ち回りのカッコ良さ、美しさ、迫力に興奮した学生時代の私は、声を嗄らして「澤瀉屋(おもだかや)! 待ってました! 三代目! 日本一!」と叫び続けたことを告白します。

古語に「傾(かぶ)く」という言葉があります。本筋から傾くことから「常識外れの異様な身なりや言動をする」、またこれを地で行く人物を「傾き者(かぶきもの)」と言い、「かぶき」に「歌舞伎」の字を当てて今に至ることは周知のことと思います。古典歌舞伎の復活上演、スーパー歌舞伎の創出、オペラをはじめ異ジャンルの舞台演出等々、常に“傾く精神”を視座に、多くの“実験”を繰り返し、様々な批判にもブレることなく着地点に向かい続けたのが三代目なのです。歌舞伎と現代との接点を求め続け、結果として「古典」「伝統」という言葉の意味を世に問うた功績には大きな評価が与えられるべきだと思っています。
間もなく四代目市川猿之助が誕生します。三代目の精神をしっかり受け継ぎ、新たな猿之助像をじっくりとつくり上げ、三代目以上に世の中にインパクトを与え続ける歌舞伎役者になってほしいと心から期待しています。

きれいな桜が咲き誇る吉野山

奈良県にある「吉野山」。古くから花の名所として知られ、特に桜が有名。1990年には日本さくら名所100選に選定されました。4月の吉野山は花見客で賑わいます。

(2012年05月 COLARE TIMES 掲載)

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