Vol.57

「山海塾」秋ツアー2017
トビリシ(ジョージア国)


 ジョージア国での「金柑少年」上演を終えて、10月30日ジョージアのトビリシからトルコのイスタンブールで飛行機を乗り継ぎ、ドイツのフランクフルトで1泊し、南米コロンビアのカリに移動して「TOBARI」を上演する旅程です。コロンビアから帰国する舞台監督と助手はイスタンブールからパリで1泊し、コロンビアのボゴタで再び合流します。若手ダンサーはフランクフルトの夜の町を楽しむ計画です。
 フランクフルトからのフライトでは、私のすぐ後ろの席の男性が大声を出して隣の席の友人とおぼしき男性に羽交い締めにされていました。時間が経つとまた騒いで手を振り上げたりするので、私は危険を感じ、後部の空席に移動しました。ボゴタの空港では地上職員がその男性をまず降ろす作業をしたので20分ほど待たされました。アビアンカ航空の飛行機に乗り換えて、コロンビアのカリのホテルに到着したのは、31日夜の12時で、44時間の旅でした。
 翌朝からジョージ・イサアクス劇場で「TOBARI」公演の仕込みを開始。9月5日に富山倉庫からコンテナーに積み込んだ舞台装置は、劇場の奈落に到着していました。カリで行われる3回目の国際ダンスフェスティバルで、日本語を話すアンヘラとデイビットという若い男女がアテンダントとして劇場とホテルに付き添ってくれました。
 夜の9時から郊外の巨大なイベントホールでサルサの公演があるというので、フェスティバルの車で現地に送って貰い、11時に迎えに来て貰うことにしたのですが、1時間待っても来ません。困り果てていると、深夜1時にイベントが終わり、大型バスが無料で観客を町まで運ぶというので、それに乗せて貰いホテルにたどり着きました。
 ホテルと劇場は歩いて10分ほどですが、危険だというので車で移動します。日中はそれほど危険を感じないので、散歩したり劇場近くの大衆食堂で食事をしました。公演が始まってからは、滞在していたインターコンチネンタルホテルからカリ動物園まで往復50分ほどジョギングをしました。標高1000mの町ですが特に息苦しくもなく、川沿いを走ったのですが緑色の大きなイグアナがいました。
 11月3・4日、「TOBARI」公演。5日、カルチャーセンターでワークショップ。6日、ボゴタに移動するためにホテルから空港へバスで移動しましたが、カリでよく見かけた二人乗りバイクのポリスが併走してきました。空港に到着してからバスの運転手と話しているのを見て、私たちを護衛していたことに気付きました。
 6日夜は在コロンビア日本大使館主催のレセプションが中華料理店でありました。今回の公演は日本文化庁助成事業で、日本大使館がいろいろ面倒をみてくれました。新しい大使が赴任する前と言うことで。大使館の外で食事をする事になったのだと思います。


 ボゴタには何度も来ているのですが以前のフェスティバルが無くなり、初めてのテアトロ・コロンというオペラハウスでの公演です。ホテルは隣にあり、その名もオペラホテル。劇場は舞台側がリニューアルされてアメリカ式の機構となっていましたが、搬入口がまだ出来ていないので客席脇の廊下を通って舞台装置を運び込みました。劇場は主催では無く提携公演ですが、テクニカルディレクターは日本で2年間ほど研修を受けたそうで、とてもフレンドリーでした。ボゴタは標高2600mにあるので、ジョギングはしません。
 仕込2日目は、昼から劇場建物の最上階フロアーでワークショップ。仕込み、本番にかかわらず、時折犬を連れた警備員が巡回しています。どうやら麻薬犬らしく、臭いを嗅ぎ回るのですが従業員の人気者でした。
 11月9・10日、「TOBARI」公演。10日の日中、車をチャーターして有名な「塩の教会」を観光しました。以前来たことがあったのですが、その時より観光地として整備されていました。


 11月11日、カリブ海に面したカルタヘナへ移動。ここからは「UTSUSHI」公演となるので、舞台監督の中原はパリへ行き他のグループの仕事、大道具の渡部はパリ経由で日本に向かいました。
 「UTSUSHI」メンバーは6人のダンサーと音響、照明、舞台監督の合計9名です。衣裳、化粧道具、舞台装置を4つのスーツケースに詰めて手持ちで移動します。私は二つの名前を使い分けて演出と舞台監督を担当します。
 午後1時にカルタヘナ到着。ホテルにチェックインしてすぐ公演場所のコンベンションセンターへ行き、昼食を取ってから仕込み開始。劇場ではなく会議場なのでステージに袖幕などはなく、客席は扇状で4,000席ほどあるのですが照明機材は乏しく、何処に作品のポイントを置くかが重要になります。主催者はダンス教室の先生で、生徒と共に作品を創って公演活動を行っているアルバロという男性です。
 装置、照明、音響それぞれ現地担当者はいるのですが、どうも私たちがやろうとすることを理解できないようです。それでも何とか翌日の11月12日午後7時の開演時間に間に合わせたのですが、他の会場から来る観客を待ちたいと言うことで30分以上待たされました。7時の段階で800人ほどの観客数だったのが、いつの間にか4,000席がほぼ埋まっています。客席の喧噪がいつまでも収まらないので、暗転して始めることにしました。
 翌日は荷物をまとめたり洗濯したりしてから、カリブ海で泳ごうと思い海辺に行ったのですが、波が高く水も濁っていたので足を着けるだけにしました。代わりに海沿いの道をジョギングすることにしたのですが、観光バスなど車が多く、排気ガスの臭いが強かったです。もしかするとアスファルトが高温で臭いを発していたのかもしれません。


 11月14日は朝から、竹で作られた教会でワークショップを行いました。教会と言っても宗教的な調度品はなく、かつて教会として作られた建物をアルバロが借り受けてイベント空間にしているようです。午後から彼の生徒たちのグループ「エル・コレヒオ・デル・クエルポ(El Colegio del Cuerpo)」のパフォーマンスを見ました。彼は30年ほど前にフランスで山海塾公演を見て、「いつの日か自分も故郷で山海塾のようなカンパニーを創りたい」と思ったそうです。すごい情熱家で押しが強く、政治的野心も強そうな人でした。


 11月15日、ボゴタ経由でツアー最終公演地エクアドルのキトに移動しました。エクアドルは初めて訪れる国です。空港から市街地までは、車で山や谷を越えて1時間以上かかります。標高2850mにある都市で、今までで一番高いところにあります。仕込みは16・17日の朝9時から午後5時までと決められたので、夕方は町の観光をしました。16日の夕方ホテルに戻るとダンサーの一人が体調不良を訴えるので、翌朝日本大使館に電話したところ、参事官であり医務官でもある志賀尚子さんがホテルまで大使館の車で迎えに来てくれました。その車で、私も一緒に病院に行き診察を受けました。感染症ではなく泌尿器系の不調だということなので、私は二人を残して病院から劇場に入り、午後5時まで仕込みを続けました。ホテルに戻り夜7時になっても病院から戻ってきません。深刻な問題が起きたのかもしれないと思っても、大使館は時間外で電話は通じません。明日の本番は私が出演することになるかもしれないと思い、振付の確認を始めていると、ようやく当人が戻ってきました。病院から日本大使館へ行って大使館員と歓談してきたそうです。まあ良かった。
 11月18日テアトロ・ナシオナル・スクレで「UTSUSHI」公演。午後7時には劇場前に信じられないくらいの人だかりが出来て、入場するのが大変な状況になっています。4階のバルコニー席まで満席で、15分遅れの7時45分開演。終演後バックステージで日本国大使の野田仁さんにお会いしてお礼を述べましたが、医務官の志賀さんは立場上、大使館に居なければならず、お礼をする機会を逸しました。
 翌19日は帰国日ですが、フライトが日付が変わる真夜中1時35分までないので、市街地の外れからロープウエーでアンデス山脈を見に行くことにしました。一気に1000m以上上昇し、標高4000mの到着点からさらに徒歩で50mほど登りながら散策します。富士山頂より高いところを街歩きの格好で歩けるのは驚きですが、さすがに空気が薄いと感じました。夜は全員で地元料理のレストランで打上パーティーをしました。25年間山海塾のブッキングエージェントとして一緒に仕事をしてきたフランス人のピエールがこの仕事で引退します。日本での再会を約束して無事ツアーは終わりました。
 10月11日成田から出発し、フランス、ジョージア、コロンビア、エクアドルを経て11月21日羽田に到着しました。世界一周旅行です。22日に富山倉庫で「MEGURI」の舞台装置をトラックに積み込み、23日から新宿の新国立劇場で仕込み、25・26日本番、27日に富山の自宅に戻り、私の旅は終わりました。12月3日、村の神社で新嘗祭に参拝しながら日本人であることの意味を考えていました。


写真上)塩の教会
 南米コロンビアの首都ボゴタから日帰りで訪れられる「塩の教会」。もともと塩鉱山だったところをカトリック教会にしたこの場所は、カラフルなLEDで幻想的に照らされている。人の手で掘られたとは思えないほど、広大な洞窟内に広がるミステリアスでスピリチュアルな世界は圧巻。

写真中)竹の教会
 コロンビアの港町カルタヘナから車で約1時間のところにある、竹で作られた教会。池の真ん中にある教会で、吹きさらしになっている。ここでワークショップを行った。

写真下)黄金の聖堂
 エクアドルの世界遺産「キトの市街」にある「ラ・コンバニーア聖堂」。別名、「黄金の聖堂」。エクアドルにおいて最高のバロック建築と称される。1605年に建設が着工し、160年以上もの年月をかけ完成した。最大の見どころは、聖堂内部の総重量約7tもの金箔で覆われた豪華絢爛な主祭壇。

(2018年08月 COLARE TIMES 掲載)


 


「COLARE TIMES 編集室」へ ― 「ラレコ山への道」トップページへ ― ホームへ