Vol.26

2004年春 イスラエル


 4月2日、一週間の休暇で日本に戻りました。4月12日にはイスラエルに行く予定です。しかし3月22日にハマスの創始者ヤシン師がイスラエル軍ヘリコプターからミサイル攻撃によって暗殺されたため、4月5日から12日までの過越の祭り期間中に報復攻撃の可能性が高く、日本国外務省から「渡航の延期をおすすめ」勧告が出されています。我々のフランス人エージェントによると、テルアビブの公演主催者はイギリス政府の勧告に従って公演をキャンセルできることになっているとのこと。その場合、興行収入が入らないのはもとより、2月に日本から出した船荷をどうするかが問題です。予定ではテルアビブ公演後、舞台装置はポルトガルのリスボンへ船で運び、衣裳は我々と一緒に手持ち荷物として次の公演地アイスランドのレイキャビックへ運ぶことになっています。もし報復攻撃が始まり、外務省から避難勧告が出た場合、イスラエルに行くわけにはいかなくなります。
 舞台装置は作品ごとに2セット有り、フランスと日本に1セットずつ有るので、この後のアイスランドとノルウエーはフランスのセットで公演することになっていますが、衣裳は1セットしか有りません。「ひびき」の最後の公演は去年の10月、広島だったので次の公演地テルアビブには日本の舞台装置と一緒に船に乗せたのです。
 万が一に備え、4月5日、富山の倉庫へ行き、代替えの衣裳を捜しました。幾つか見繕い、いつでも送ることが出来るようにパッキングしました。そして4月8日、イスラエルには直接関係しませんが、イラクで3邦人が誘拐され人質となる事件が起きました。こうなるとツアーメンバーの親族や関係者は危ないところに行くのではないかと心配します。私もイスラエル公演が中止になった場合の対処の仕方を幾つかシミュレーションし始めました。
 4月11日、成田出発パリ着、翌12日エールフランス1620便でパリからテルアビブに向かいました。今日無事に過ぎれば公演が始められます。テルアビブの空港では税関の前にいろんな国から過越の祭りのためにやって来た人たちがいて、宗派の違いか、地域性の関係か、いろいろな格好の団体がいて目を楽しませてくれました。
 何事もなくテルアビブのホテルに到着し、夜公演会場でテクニカルミーティングをしました。今回はテルアビブ大学の中にあるスモラーズオーディトリアムというコンサートホールで仮設トラス組をして公演します。13・14日仕込み、15日「ひびき」初日、公演後のレセプションで日本大使館の人からイラクで人質になった邦人3人が今日解放されたと聞きました。16・17日公演、18日イスラエル軍が再びヘリコプターからのミサイル攻撃でヤシン師の後継者ハマスのランティシ師を暗殺しました。この日はイスラエルの記念日であるホロコーストデイのイヴで、夜8時以降レストランや劇場は休み、ホテルのBGMも無く静かな夜となりました。19日はホロコーストデイで朝10時すべての交通機関が止まり、黙祷を捧げます。ホテルの部屋から見下ろせる高速道路ではすべての車が止まり、運転手も路上に出て、黙祷していました。でも休日ではないようで、お店やレストランは営業していました。この両日は山海塾公演も無かったのですが、私と若手ダンサー3人でダンスワークショップを行いました。参加者はイスラエルのダンサー30人ほどで、日本でも有名なバットシェバというカンパニーの若手が20人ほどいました。
 20日、公演最終日。4回公演で5,000人ほどの観客動員です。終演後舞台装置を撤去し、コンテナに積み込みました。衣裳は車でホテルまで持ち帰り、手荷物とします。
 21・22日は休み、22日はイスラエルのプロデューサーと一緒に車を3台連ねて南の砂漠に出かけました。丸一日のバカンスです。ベルシェバという町の近くを通りました。このシェバという発音をよく聞くのですが、7という意味だそうです。そういえば在イスラエル日本大使館の人の名前は森本七子といったなと考えていたら、その当人から携帯電話に連絡が入り、砂漠を楽しんで下さいとのこと。駱駝を見たり、オアシスでコーヒーを沸かして飲んだり、巨大なクレーターの岩場を車が前回りするのではないかと思うほどの傾斜を降りたりしました。
 12日、無事テルアビブからパリに戻り一息つきました。
(2004年11月 COLARE TIMES 掲載)



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