Vol.16

オペラ「三人姉妹」地方巡業


 1ヶ月半の山海塾ツアーを終えて2月15日に帰国し、16日に富山の実家に戻って叔父さんの還暦の祝いに出席し、翌日は村の親睦会でうどん・そば係になり、酒を飲み続けました。私の妻と娘は群馬、母が富山に住んでいて、事務所は東京にあります。1週間で3カ所を回っていろいろしなければなりません。特に今回は留守の間に会社の確定申告を行ったので税理士から説明を受けて、後片づけをしなければなりません。時差ぼけなど気にしていられません。やれるだけのことはやって、22日ブリュッセルに向かいました。
 ベルギーのサベナ航空がテロのあおりで倒産してしまったので、直行便がありません。成田で照明の岩村と合流し、スカンジナビア航空のコペンハーゲン乗り換え、ブリュッセル行きに乗りました。成田を出発してすぐうとうとした後、猛烈な吐き気と下痢に襲われて何度もトイレに行く事態となりました。幸いな事にダブルブッキングで私の座席が無く、ビジネスクラスのトイレに近い席がもらえたので助かりましたが、ブリュッセルのホテルに着くまでの16時間余り、飲まず食わずで過ごし憔悴しきってしまいました。最近体力の衰えを感じてはいたのですが、こんなに体調を崩したのは久しぶりです。翌日23日は朝から仕事でしたが、体調が戻っていなかったので朝昼とも食事はせず、夜ようやく少し食べる事が出来ました。日本の猛烈ビジネスマンがくも膜下出血で死亡するのはこんな時なんだろうなと思いましたが、蝉丸がビジネスマンだとは誰も思っていないだろうから、こんな所で死ぬわけには行きません。
 リヨンからはパリと同じメンバーが来ています。25日には天児と山口も到着し、黒子のオーディションから稽古が始まりました。昨年パリ公演の時と2人歌手が替わっているので主にその人達の稽古ですが、相手役が必要なので結局毎日みんなと顔を会わせます。三人姉妹の一人マーシャ役は鬼門で初演は「COLARE TIMES」のCD紹介コーナーで取り上げられていたスラバだったのですが、わがままで困りました。パリのシャトレ座ではベジャンに替わったのですが、アメリカでは子役の時から有名だったそうでやはりわがままでした。今回のローレンスはとても声量があり、周りとうち解けているのですがとても体格が良くてちょっと困ります。
 劇場はモネという古い小屋で煉瓦作りの、音が良く響くオペラハウスです。舞台の奥行きがないので奥のオーケストラは最上階に新しく後で付け足した稽古場で演奏し、本番はその音をマイクで拾ってスピーカーで舞台奥から流すという方法をとります。ブリュッセルではピーターエートボッシュが前のオーケストラを指揮して、ローランドボーエという劇場の指揮者が奥のオーケストラを指揮しました。劇場の床が4パーセント傾斜しているので舞台装置に少し工夫が必要です。傾斜している舞台のことを日本では八百屋舞台と呼びますが、視覚的な効果だけではなく、オペラでは歌手の声が良く客席に飛ぶという利点があります。古いタイプのオペラ劇場はコンテンポラリーダンスには使いづらいのですがここはローザスというグループが本拠にしているようです。ブリュッセルにはパレデザールというコンサートホールがあり、昨年山海塾の「ひよめき」を上演しました。コンサートホールですので本当に使いづらいのですがディレクターが強く山海塾公演を希望してくれるので、ホールの中にトラスを組んで公演しました。2003年の5月7日に「うねつ」を上演することになっているので照明の岩村と2人で技術打ち合わせに行きました。野外で公演するつもりでやれば、コンサートホールでも何とかなります。劇場に戻って舞台監督に、来年山海塾の公演が決まったから招待するというととても喜んで住所を教えてくれたのですが、パリの住所なので不思議に思って詳しく聞くと彼女はフリーランスの舞台監督だという事です。劇場のスタッフにどんどん指示を出し、舞台監督助手は劇場の人間ですので非常に驚きました。そう言えばこの三人姉妹の初演をした時のリヨンのオペラ座でも舞台監督はフリーランスでした。技術力と金銭関係でフリーランスを多用する業界なのかもしれません。
 2週間後の3月8日に初日を迎え、9日に帰国です。2週間後の24日には地方公演の3カ所目となる、初演の地リヨンオペラ座に入らなければなりません。日本では娘がB型インフルエンザにかかったとか、飼っているウサギの子供が何度数えても一羽多いとか、ふーむ……といった事態が私を待っています。
(2002年07月 COLARE TIMES 掲載)



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