Vol.13

山海塾創立25周年


 山海塾の創立は1975年11月5日です。当時私は19歳。東京の大学で国文学を学ぶ2年生でした。もともと小説家になりたいという思いがあったのですが、高校生の頃から演劇に興味を持ち、戯曲の勉強などを始めたのが舞台に乗るきっかけでした。アルバイト先で知り合った守鏡丸という人が師匠ですが、この人に連れられていろいろな舞台を手伝ったり出演したりしました。
 舞踏との初めての出会いは、師匠に勧められて舞踏の映画を見た時です。強い衝撃を受けて「これは生の舞台を見ないわけにはいかない!」とそこで配られていたチラシにある北方舞踏派旗揚げ公演「塩首」を山形の鶴岡まで見に行くことにしました。1974年10月のことです。三日間日雇いのアルバイトをして往復切符と入場料1,500円、乾パン一袋、キャンプ用のコンロとインスタントコーヒーを持って出発しました。三日間は何も食べなくても大丈夫という自信がありましたが、せっかく山形に行くのだから出羽三山に登ろうと思って乾パンを用意したのです。各駅停車の電車を乗り継ぎ、駅の近くで野宿をしながら職務質問してくる警察官の相手をしたりして、予定通り北方舞踏派の本拠地グランカメリオという建物にたどり着きました。
 公演は予想を遙かに凌ぐ衝撃的なもので、暫く軒下で降る雨をぼーと眺めていると出演者の一人が話しかけてきました。東京から来た学生でこれから山に行こうと思っているというと、この雨は三日間は止まないだろうからここにいた方が良いというので、お金が無いというと「潜り込めば判らないよ」と行ってくれました。500円払うとさっきまで劇場だったところでおにぎり3個、みそ汁、布団をくれて泊まることが出来ます。出演者がそう言ってくれるのだから大丈夫だろうと潜り込むことにしました。20人ぐらいお金を払った人たちが居たので遠慮していたのですが、余っているからとおにぎり、みそ汁、魚の干物などをどんどんくれます。何しろ二日間何も食べていないので腹ぺこでした。これで乾パンには手を着けなくて済むぞと嬉しくなっていると、どこからか酒が回ってきました。出演者もほとんど居ます。二階から大声で喧嘩をする声が聞こえてきます。「う〜む。これは恐ろしいところに来てしまったぞ」と思いながらも猛烈な睡魔に襲われて眠りに落ちていきました。
 翌朝目が覚めるとまたみそ汁とおにぎりが用意してありました。他の宿泊客は全員今日も公演を見るといっています。年輩の方の話によると舞踏公演は毎日少しずつ変わってゆき同じものは二度と無い。その変化が面 白いのだそうだ。公演は三日間あるので私は一宿一飯の恩義を返すために舞台を手伝うことにしました。ここで舞踏の創始者、土方巽と大駱駝艦系列の人たち、それに山形在住の森繁哉さんと出会ったのですが、誰が誰だかほとんど判りません。しかし毎晩酒を飲みながら観客も交えての宴は18歳の私には衝撃の連続でした。公演終了後も4トントラックを運転できる者がいないというので運転をかって出て、三日間滞在しました。客演の人はすぐ帰っていき、北方舞踏派の人も仕事に旅立っていき、最後の晩は主宰者のビショップ山田と雪雄子と私の三人きりになり、にぎり寿司の出前を取って酒を飲みました。このとき強くここに残るよう勧められましたが、東京のアパートがそのままになっていることと舞踏の勉強は東京でも出来ると思い帰京しました。
 東京に戻ってからも大駱駝艦の公演の手伝いをしたり、出入りしていた劇団の座長に相談したりしました。座長の鎌田夫妻が以前大駱駝艦のメンバーだったことをこの時初めて聞かされ、座長の言うとおりに山海塾の面 接の時に酒を二本持っていって「お金は全く無いのですが宜しくお願いします」と言いました。この日が山海塾の創立の日となり30人ほど人が集まってきました。私は19歳になっていましたが長い1年だったように思います。ほどなく大学を中退し、アパートも引き払って大駱駝艦の寮に入りました。2年後の1977年に山海塾旗揚げ公演を行ったのですが、この時にはメンバーは4人になっていました。
 あれから25年の歳月が流れいつの間にか舞踏を職業としていました。そして創立25周年記念(本当は26周年)の5月からの6作品連続公演には多くの観客が来てくれました。猛烈に忙しい日々が続き、感慨に浸っている暇もありませんでしたが、また次のステップに進む努力をしていこうと思います。
(2001年09月 COLARE TIMES 掲載)



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