Vol.12

ロンドンでローカルな話


 2001年3月5日、パリでトラックの荷物を積み替え、翌日飛行機でマルセイユに行きました。南仏はもう初夏の陽気で草花が咲き乱れていました。マルティーグという町で「ひびき」という作品を上演します。出演者が他の作品より1人多いので、岩下が単独で日本から来て合流しました。9・10日と公演して、翌日パリに移動だったのですが、私は公演後すぐフランス人の運転手とトラックでディジョンに向かいました。フランスやドイツではトラックを1人で1日8時間以上運転してはいけないそうです。次の公演地ストックホルムはとても遠いのでディジョンまでは私が交代で運転し、ディジョンで他の運転手が乗り込んでハンブルグまで交代で運転していく計画です。その後はフェリーに乗るので1人でも大丈夫です。5年ほど前にマルティーグで公演したときもやはり私と運転手の二人で夜駆けでパリまで走りました。その時と同じ運転手ですが、私よりだいぶ年上なのです。当時は「いや、俺が運転するよ」と言い合ったのに今回は「ぼちぼち替わろうよ」と2時間交代で800キロを運転しました。翌日、他のメンバーと飛行機でストックホルムに行きました。ストックホルムはまだ冬の真っ最中で公園などは雪で真っ白です。ホテルから朝出かけるときはまだ薄暗く、夜劇場から帰るときはもう暗くなっています。もっとも7月になれば24時間暗くならなくて困るのですが。劇場はDANSENS HUS(ダンスの家)という市立劇場で、バトンの綱元が全部舞台奥にあるのが特徴です。観客には全く関係ないことですが、技術的には非常に珍しい物です。15・16・17日と「ひびき」を上演しました。18日にパリ経由でブリャニャックに移動しました。ブランデーで有名なコニャックやアルマニャックの近くです。20・21日と「ひよめき」を上演しました。22日パリに移動して25日からロンドンに入りました。サドラーズウエールズ劇場という300年以上の歴史のある小屋です。以前は非常に間口が狭く舞台が傾斜していたオペラ小屋だったのですが、3年ほど前に大改装して近代的な劇場に生まれ変わりました。前回の公演の時は楽屋の通 路がまだ塗装工事を続けていたので、衣裳が触れないように気を揉みました。ロビーや客席は綺麗に仕上がっていたのですが、客席最後部の仮設音響席にケーブル用の配線がなかったので、劇場の音響担当者がチェーンソーで出来たての床にカーペットごと20センチ角の穴を空けてくれました。ずいぶん大胆なことをするものですが、今回もそのままその穴を使いました。27日から31日まで「ひびき」を5公演しました。ほぼ満席でしたので、7000人ほどの観客動員だと思うのですが、日本大使館の人や国際交流基金の人は、観客に占める日本人の割合が極端に少ないことに驚いていました。確かに山海塾と地方の日本人会とは交流がないし、断続的にツアーを続けているので観客動員は地方の主催者に任せきりです。もう少し時間に余裕が有れば地元在住の日本人と話がしたいと思います。そう思っているところに公演後、楽屋口に日本からロンドンのロイヤルバレーに衣裳関係の留学をしているという女性が話をしたいと現れました。前橋のバレー団で仕事をしているということなので帰国したら会うことにしました。私は日本では群馬県の新町というところに住んでいますから、すぐそばなのです。最終日の公演後、劇場の裏のパブでパリの事務所の人たちと飲みました。事務所で働いているフランス人の友達で日本人が4人来ていてヨーロッパの国々の話をした後、出身地の話になり、1人は私と同じ朝日町の境の水島さんでした。しばらく親戚 関係者の林酒造や地中海の話で盛り上がりました。もう1人の女性は横浜市出身だというのですが、話の内容や言葉のイントネーションからどうも横浜の町の人ではないと思ったので、私が群馬県に引っ越す前は横浜の緑区元石川町の近くに15年ほど住んでいた話をしたところ、そこの出身だと言います。あの辺は市街地調整区域になっていて竹林や栗林、今頃は桃の花でいっぱいの丘や谷があります。黒沼という大きな家や墓が幾つもあるところなので「あの谷は黒沼一族の物ですね」と言うと、「私、黒沼です」との答え。結婚して姓が変わっていたのです。ご主人に出身を尋ねると渋谷区東。私が1年ほど通 った大学が有るところです。
 世界は広いようで狭いものだとロンドンの夜更けのパブで実感しました。

(2001年08月 COLARE TIMES 掲載)



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