ラレコ山への道 小野木豊昭 古典空間への誘い

【其の七拾七】成田屋!(其の弐)

2013年5月
4月2日、いよいよ“五代目”の歌舞伎座が開場しました。慣れ親しまれてきた瓦屋根、唐破風、欄干など、晴海通りから眺める光景は以前と“まったく”変わらないのではないかと見紛うほどで、背後に高層ビルはそびえ立っていますが、日本が誇る伝統芸能・歌舞伎の殿堂として、まさに威風堂々です。そして、第一線で活躍する名立たる歌舞伎俳優が大集結して華々しく、連日満席の大入りにて賑々しく興行が執り行われています。歌舞伎の歴史にとって大きな一頁であることは間違いありません。しかしその中に「市川団十郎」の名前がないことに大きな欠乏感を抱かざるを得ません。

現代社会との単純な対比をお許しいただくと、プロ野球もJリーグもテレビやインターネットもなかった時代において、数少ないエンターテインメントであり情報源の一つでもあった芝居=歌舞伎に江戸の庶民がのめり込んだその深度は計り知れないと想像します。「芝居を共有」することで自らのアイデンティティを確認していたわけです。

八代目市川団十郎(1823~1854)の演じる「成田山不動明王」/嘉永4年(1851)江戸・市村座/三代歌川豊国画(筆者所蔵)

八代目市川団十郎(1823~1854)の演じる「成田山不動明王」/嘉永4年(1851)江戸・市村座/三代歌川豊国画(筆者所蔵)


多くの江戸庶民が信仰する成田不動尊と自らを一体化させることで、市川団十郎という名前を江戸歌舞伎の中でも特異な存在たらしめることに成功した初代から、その意思を受け継いだ二代目以降の団十郎も、常に「市川家」や「団十郎」という背負った看板の大きさ、重さを維持のみならず拡大することを義務付けられて現在に至っているのです。社会からも芝居の世界からも、「明日への活力源」としての歌舞伎を象徴する存在として常に大きな期待を集め、その結果を求められてきました。ゆえに、この名前を支える生身の人間である代々の団十郎は、常にスーパーヒーローとしてのポジション、そして存在感を守り続けなければならなかったのです。

初代団十郎が元禄17年(1704)、市村座で『移徙(わたまし)十二段』出演中、生嶋半六という役者に刺殺されてから奇しくも150年目の嘉永7年(1854)8月、若き花形役者としてスター街道を驀進中であった八代目団十郎が自刃しています。遺書が残されていないため原因は未だ不明ですが、天保の改革の贅沢禁止令により咎められ江戸を追放されていたとは言え、「歌舞伎十八番」の制定、「鎌輪ぬ」模様の流行、数々のスキャンダル等々、父・七代目団十郎の公私にわたるさまざまな業績や所業……その大きな存在感、影響力と自らの存在の狭間で蓄積したストレスも原因の一つと考えられています。

昭和58年(1983)3月29日、先日亡くなった十二代目団十郎さん(当時海老蔵、団十郎襲名直前の37歳)が、・成田山勧進歌舞伎・と題して『那智滝祈誓文覚(なちのたきちかいもんがく)』というお芝居を復活上演しました。団十郎さんは、袈裟の盛遠後に文覚上人と不動明王を演じましたが、大詰でご本人が扮する舞台上の不動明王に客席から賽銭が投げ入れられました。成田からの講中や御贔屓のお客様とのお約束の演出(?)とは言え、市川団十郎と不動明王が重なった瞬間を観た思いでした。こんな演出を可能たらしめるのは、市川団十郎、市川海老蔵という名前だけなのです。

初代が築き、代々の団十郎と江戸の人々が育んできた「市川団十郎」。口にした時、文字を目にした時、その名前自体が「力」を持っている唯一の、歌舞伎を象徴する名跡なのです。新しい歌舞伎座、その檜舞台で名実ともに充実した十三代目団十郎が大見得を切って世の中に福をもたらす日を、心から待ち望んでいるのです。

「鎌」と「○」と「ぬ」の字で「構わぬ」と読む

「鎌輪ぬ」模様:「鎌」と「○」と「ぬ」の字で「構わぬ」と読む。七代目市川団十郎が舞台で着て評判になり、広く流行した。

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