ラレコ山への道 小野木豊昭 古典空間への誘い

【其の七拾六】成田屋!(其の壱)

2013年4月

私が歌舞伎を観ていて最も気持ちが昂(たかぶ)るのは、お芝居のクライマックスで主役級の役者が大きく「見得(みえ)を切った」時です。足を思い切り前に踏み込み、拳を握りしめ、全身に力を込めて、さらに眼を剥(む)く(いったん瞼を閉じ、再びカッと見開き片方の黒目を中央に寄せる)、そしてストップモーションのごとく形を極めて一瞬静止する。この時役者の呼吸に合わせて、舞台上手(かみて)際で黒いタッツケ姿の大道具方さんが「バタバタバタ、バッタリ」とツケ板という木を打って大きな音を出す。「ツケ打ち」と言いますが、大いに「見得」という演技を強調します。歌舞伎を象徴する独特な演技様式ですが、お芝居の内容が複雑だったり、荒唐無稽(こうとうむけい)で理解を超える時でも、この「見得」という演技で、何故かすべてを納得させられたような気になるから不思議です。お芝居のアクセントとしての“軽い”見得もありますが、空気を一変させてしまうような見得、特に「元禄見得」「柱巻きの見得」「不動の見得」などは、圧倒的な迫力をもってドラマを締めくくる役割だけではなく、実は観客に「安心感と明日への活力」を供給し続けてきた神秘感に満ちた演技であるとも言えるのです。

初代市川団十郎。成田山新勝寺にほど近い下総(しもうさ)の幡谷村(はたやむら)が父親の出身地とされ、不動明王を本尊とする新勝寺に祈願して生まれたのが息子・九蔵(二代目団十郎)ということで、元禄10年(1697)江戸・中村座で自ら作った『兵根元曾我(つわものこんげんそが)』という芝居で、10歳の九蔵に不動尊を演じさせました。成田不動信仰が盛んであった江戸の人々からは舞台に賽銭が投げられ、集まった賽銭を持って成田山にお礼参りをしたそうです。「団十郎の息子は成田不動の申し子だ」という神秘的なレッテルを敢えてアピールすることで、市川家の存在を江戸歌舞伎の中でも特別な存在として地位を固めていったと考えられています。その後、赤穂浪士の吉良邸討入り事件の翌年、元禄16年(1703)に、御本尊を成田山から江戸に移して開帳する「出開帳(でがいちょう)」が行われましたが、そのイベントと期を同じくして森田座で上演した『成田山分身不動(なりたさんふんじんふどう)』という芝居では、九蔵と共に自らも不動尊を演じ大ヒット。成田山新勝寺とタイアップを画策したプロデューサーとしての実力も評価されていますが、右手にすべてを断ち切る剣、左手にすべてを救う羂索(けんじゃく)という縄を持ち、炎を背負い憤怒(ふんぬ)の形相で人々を護(まも)ると云われる不動明王をはじめ、その他、当時の庶民から篤(あつ)く信仰され、圧倒的な力で救いをもたらす様々な仏像を、芝居のクライマックスで演じたことから生み出された演技が「見得」なのではないかとも考えられているのです。

そんな初代市川団十郎も翌元禄17年、市村座出演中に舞台で刺殺されてしまいます。原因は諸説ありますが、その後、代々の団十郎も歌舞伎の世界に新たな創造と革新、そしてスキャンダラスな話題を世に提供し続けてきたのです。
(つづく)

五代目市川海老蔵(=七代目市川団十郎/1791~1859)の「睨み」/五渡亭国貞画(筆者所蔵)
「睨み」の目の部分を拡大したもの
五代目市川海老蔵(=七代目市川団十郎/1791~1859)の「睨み」/五渡亭国貞画(筆者所蔵)

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