ラレコ山への道 小野木豊昭 古典空間への誘い

【其の九】ちょっと気が早いけど、やっぱり忠臣蔵。

1999年10月

 時は元禄十五年、小雪降り敷く師走の十四日。今は亡き、殿の恨みを晴らさんと、所は本所松坂町。討ち入る浪士は四十七士!

 ご存じ忠臣蔵の物語。2001年は、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介を切りつける「刃傷松の廊下」の事件から、ちょうど300周年にあたり、“忠臣蔵ブーム”の再燃か? と噂されています。NHKの大河ドラマ『元禄繚乱』も、中村勘九郎扮する大石内蔵助が、浅野家再興の夢の叶わぬ ことがわかり討ち入りを決意。クライマックスに向けてドラマも佳境に入ろうとしています。

 人形浄瑠璃、歌舞伎、落語、浪曲……と、「忠臣蔵」は日本のさまざまな芸能に採り入れられ演じられ続けてきました。“古典空間”にはまさに忠臣蔵の話題が満ち満ちているのです。そこで今回は、“日本の宝”「忠臣蔵」について少々。

 太平の眠りを醒ました赤穂の浪士たち。時代の一服の清涼剤になった彼らは、当時の大スター。にも関わらず、討ち入りの翌年(元禄十六年=1703)には切腹。憧れのの大スターたちの悲劇は、現在と較べると数少ない娯楽の一つであったお芝居、つまり歌舞伎で即座に上演されました。今でこそ歌舞伎は“伝統芸能”だの“古典芸能”だのといわれ崇め奉られていますが、当時は現代劇として時代を映す鏡だったはずです。しかし幕府にとって、討ち入りは重大は犯罪行為であることには変わりはない。その犯罪行為を褒め称える芝居を放っておくわけにはいかず、早速上演禁止! その後お芝居や人形浄瑠璃のサイドとしては、幕府の“検閲”ギリギリの内容で手をかえ品をかえ上演しましたが、その集大成が、寛延元年(1748)に大坂の竹本座で上演され大ヒットした『仮名手本忠臣蔵』だったのです。

 これは歌舞伎ではなく人形浄瑠璃。著作権なんて感覚がなかった当時、早速翌年には江戸で歌舞伎として上演されました。ちなみに、「仮名手本」とは、いろは四十七文字のことで赤穂浪士四十七士を暗示するとともに人生の手本という意味。すべての実名を隠した仮の名を使っている(大石内蔵助は大星由良之助)。「忠臣蔵」は、浄瑠璃という“蔵”の中に忠臣たちの言行を書きとめた。リーダーの本名は内蔵助だ! しかも、初演されたこの年が事件よりちょうど47年目!!

 「忠臣蔵」の面白~い話は、秋の夜長を一杯やりながら語り明かすにはもってこい! なのです。

(1999年10月 COLARE TIMES 掲載)

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